WABI - SABI

Un roman est un miroir qui se promène sur une grande route.

<Le Corbusier : Les Heures Claires de La Villa Savoye>

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La Villa Savoye


 

<Le Corbusier : Les Heures Claires de La Villa Savoye>


Jean-Pholippe Delhomme × Jean-Marc Savoye Exhibition

 

期間:2018.11.30 ~ 2019.01.31

 

<About the Villa Savoye>     *展示パンフレット翻訳

 ビラ・サボアは、ル・コルヴィジエが1928年に建築依頼を受けピエール・ジャンヌレとともに1930〜31年にかけて建てた住宅である。

ル・コルヴィジエが主張する‘現代建築5つの要素(ピロティの構造、水平窓、屋上庭園、自由な立面と平面)’が反映されている20世紀の象徴的な建築物として有名である。

しかし、この住宅に住んでいた人々についての話はほとんど知られていない。

 

 <ル・コルヴィジエ:ビラ・サボアの華やかな時間>はある女性のアイディアから始まったモダン住宅、ビラ・サボアのドラマチックな誕生過程と建築の秘話を詰め込んだ本である。

この本の著者ジャン・マーク・サボア(Jean-Marc Savoye)は、1928年ル・コルヴィジエにビラ・サボアの建築を依頼したピエール&ユジェーニ・サボア(Pierre&Eugénie Savoye)の孫として歴史的な資料と家族の思い出を土台にビラ・サボアの過去を回想する。

 

 20世紀後半、ピエール・サボアは当時新しく浮上していた事業である保険会社を運営していた。

かれの夫人であるユジェーニ・サボアは自分で運転をして水泳とゴルフを楽しむなど自由な女性だったが、彼女が何故よりによってル・コルヴィジエに家を依頼したのかは未だにミステリーである。

‘華やかな時間’という名前がついているビラ・サボアは、とても革新的で詩的な試みであり、この家で暮らす人々は確かに格別な生活を楽しんだ。

同時に、暖房と漏水問題、戦争、社会的変革による苦痛も経験しなければならなかった。

 

 <ル・コルヴィジエ:ビラ・サボアの華やかな時間>の韓国版の出刊を記念した今回の展示では、ジャン・フィリップ・デロムの原画とビラ・サボアを背景にした‘ヴィトゥラ’シリーズが紹介されている。

また、建築依頼書と建築主の手紙、3回にわたって行われたル・コルヴィジエのアトリエ設計図面とスケッチなどの関連資料、そしてジャン・マーク・サボアの映像インタビューを観ることができる。

本当にかれらは幸せだったのだろうか。これは、ル・コルヴィジエの建設についての話ではない。

特別な家に住んでいた平凡な人々の日常とその華やかな時間を記憶する誰かの大切な思い出を案内書として出発する17日間の旅行である。

ある‘職業小説家’の悩み(創批マガジン)

インタビュア&語り:チョン・ジュア(文学評論家)

ゲスト:イ・ギホ(小説家)

 

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<幸せになれなくて不幸な>

チョン・ジュア:彼は、光州から電車に乗って今し方到着したところだそうだ。光州の某大学に就職し、作家を目指す学生たちへの指導は今年で10年目を迎えた。もうすぐ登壇20年目を迎え、短編集を除いても今年まで4編の小説集及び3編の長編小説を書き上げた。作品量が多いとは言えないが、コツコツと本を書いてきた。読者の立場からすると小説家イ・ギホは、時には読みやすい小説を、時には馴染みがなくても考えてみる価値のある小説を書く作家だ。2つ目の小説集『うろたえているうちにこうなることは分かっていた』、短編集『ある程度はどうってことない』では、その独特なユーモアとウィットで読者を楽しませ、2つ目の長編小説『次男たちの世界史』では、政治権力が平凡な人間をどのように破壊するのかについて真っ向から描き読者たちを驚かせた。

 

 しかし、イ・ギホの小説を読んだことのある読者なら気づくかもしれないが、彼の文章からは創作条件の面や経済的な面で中堅作家の余裕などは見当たらない。彼は、小説を通して自分の話を打ち明ける作家である。このような傾向は年々強くなりつつあり、4つ目の小説集『誰にでも親切な教会のお兄ちゃんカン・ミンホ』を読んだあと、筆者はインタビューする前からすでに彼のことをすべて分かった気でいた。教授室にある机の前で彼は、就職率と専任教員の講義担当比率を表に整理するのに忙しかった(「クォン・スンチャンと優しい人たち」)。三人の子を持つ父親として銀行ローンの心配をし、それだけでも頭が痛いのに小学三年生の次男は父親のノートパソコンを壊して平気な顔をしている(「チェ・ミジンはどこへ」)。小説を通して出会う‘イ・ギホ’は、仕事と育児、銀行ローンの利子に追われる平凡な40代の父親以上でも以下でもない。もちろんインタビューのため向かい合い座っている小説家イ・ギホとも何ひとつ変わらない。

 

イ・ギホ:光州から少し南に位置する羅州市南平邑という田舎に小さなアパートを借り作業部屋として使っています。光州に定住する時は作業にもっと没頭して多作しようとしましたが、多産をしてしまいました。子どもが三人もいます。子どももいるし、学校での仕事もたくさんあるので執筆モードに転換するのが容易ではありません。以前は運転をしながらモード転換をしてました。もし女子大生が主人公だとすればその感情をつかもうとたくさん努力し、その状態でキャラクターを作るんです。自分自身が女子大生であるという感情に入り込めるまでずっと運転するんです。そうやって運転をして一度は光州から天安まで行ってしまったこともあります。でも、運転は時間もかかるので、最近は睡眠をとるというのに変えました。ただ、たくさん寝てしまって。。。

 

チョン・ジュア:女子大生のキャラクターを完成させようとのめり込んだ結果、‘光州から天安まで’運転したというイ作家のエピソードのどの辺りに創作の自由や楽しさを入り込ませていくのか。ただ結果として小説の執筆が職業だが小説だけ書くわけにはいかない状況になってしまい、それでも書こうと何か試さなければならない胸が痛む日常がそのまま滲みでている。故郷の原州で朴景利(パク・ギョンリ)先生宅の呼び鈴を押して逃げた青年(「原州通信」、『うろたえているうちにこうなることは分かっていた』)は、いつのまにか物書きを業とする作家、そして一家を抱える家長になり光州に定着した。

 

イ・ギホ:南平邑の古いアパートは「クォン・スンチャンと優しい人たち」の背景にもなりました。小さなまちなので人々がいつも一目で見渡せる空間です。人間関係もおなじです。もともと小都市の出身であるためか、こういった空間が気楽です。小さな都市のアパートなのでか、近所の子供達が塾に通わないんです。いつも一緒に遊んでて。かわいらしい子ども六人と一緒にご飯を食べました。人々の関係がお互い自然に触れ合う空間です。そのような空間は小説にも影響を与えます。

 

チョン・ジュア:ゆえに作家的神秘主義とはイ・ギホの辞典にはない言葉だ。有名な作家といっても日常的につらい面がないとは言えないだろうし、むしろ大したことない神秘主義より、はるかに人間的でほのぼのとした感じだ。ところが小さな疑懼が生じてくる。彼はなぜ幸せな人になってはいけないのだろうか。可笑しく聞こえるかもしれないが、小市民らしく小さい幸せに満ち足りる姿を見せることもできるのではないのだろうか。いわゆる‘小確幸’、わずかだが確かな日常の幸せを発見することが重要な最近の流行りではないのか。いや、小確幸を喚く若い世代に比べたら彼は本当に幸せな人だ。なので、これは合理的な疑懼であるといえる。仕事もしながら家長として感じる現実の疲労感とは別に、彼の最近の作品は‘心安らかに生きてはいけない、幸せではいけない’という強い自己暗示に支配されているように見えるからだ。イ・ギホ式のアイロニーをパロディーして言うのなら、幸せになってはいけないので幸せではないのではないか。

 

<‘小説の中’のイ・ギホと‘小説家’イ・ギホ>

チョン・ジュア:『誰にでも親切な教会のお兄ちゃんカン・ミンホ』には、全7編の小説が載っているが、小説集の巻末に載ってる「イ・ギホのことば」は独立した作品として見てもいいほどの叙事をもっている。どちらにしても彼の小説は虚構と実在の境界が曖昧になり、この文章まで含め収録作が8編だと言っても変ではないほどである。作家は、小説の校正作業を容易く終わらせることができない心境を最近経験した交通事故と並べて叙述する。雪が積もり視界ががよくない状況で、歩行信号が赤に変わった後で横断歩道に進入して来た男性を車で引いてしまった。それでも‘人間の道理’から青信号のとき道を渡ったと言う男性の主張を認めることにした。しかし、保険金の引き上げ程度に思われていた事件が大きくなり、刑事嫌疑が必要な状況にまでなってしまい、彼としては、‘職業が教授という事実を隠して完全なニートのコンセプトでいこう’という知人のアドバイスを黙って聞いていることはできなかったのだ。ふいにこの部分で彼は、“小説に登場する‘イ・ギホ’と小説を書く‘イ・ギホ’のあいだに”存在する“ある壁”に関する話を持ち出す。

 

 小説の中の話者と作家は分けて見なければいけないと、それを区分して見れない人はアマチュアであると、私たちは習った。でも、実際はそうではなかったということをあなたも、わたしも、よく知っているではないか。アマチュアでも熟練した読者でも、さりげなくその壁の向こう側を見ようと頑張る人たちだ。作家もまたわざとその壁にぷすっと穴を開け、少しだけ見せてあげたりもする……それと同時に見なかったふり、お互い騙し合いながら目をつむり作品を見ることができる、賞賛を並べるということだ。それが小説を読むわたしたちの倫理的な態度だろう。私はその態度が嫌いだった。小説の、作家のどこがすごいのか……私は‘作品(작품,チャkプm)’という言葉が嫌いだった。その‘ㅁ(m)’パッチムで終わる単語の中になんとなく、何かを区分しようとする変な態度を覗き見ることができるからだ。だから、私は完全にその態度を壊そうという意気込みで文章を書いた。主人公の名前も大胆に‘イ・ギホ’と名付け、これが小説なのかエッセイなのか、ジャンル分けすら無意味に、そうやって気を使いながら文章を書いた。(「イ・ギホのことば」309頁)

 

 インタビューをしている間何度か彼は、最近スランプに陥っているという話をした。そのスランプがどのような症状を伴っているのか気になったら、‘関節のないゴム人形’のようにパソコンの前で無力に枝垂れている作家の姿が描写された「クォン・スンチャンと優しい人たち」を読むといい。‘政権交代期’にやってきたスランプ、彼はそのスランプが‘変化に対する強迫観念’と関係があると語った。いつのまにか彼の愛する時空間が彼に向かって語りかけなくなったのは、生活に疲れたせいで‘モード転換’が遅れているからだけではなかったのだ。

 

 “小説の、作家のどこがすごいのか……” 新しい小説集を出したときに、彼は作家としての所感を書いた紙面を借りて、このようにつぶやいている。このつぶやきには、作家を変化に対する強迫に追い込む不満と心地悪い感情がつきまとっている。つまり作家や小説につきまとう視線もしくは態度に‘耐えられない何か’があり、それは作家の表現によると小説の中の‘イ・ギホ’と小説家‘イ・ギホ’のあいだに存在する一種の壁である。作中に突如としてあらわれ事実なのか虚構なのか分からない話を展開し、作品と現実を行き来するということはその壁を目指すある種のデモ行進である。彼が幸せになれない理由は、どうも不満な‘壁’と関連があるように見える。

 

 したがって、“小説の、作家のどこがすごいのか……”というつぶやきは、まるでトンネルのような長い時間が終わりを迎えた後に来る後遺症のようなものである。おそらく偶然ではあるが、イ・ギホの3つ目の小説集『キム博士は誰なのか』は、李明博政権が終わった年に出版された。仕事のため向かった光州で5年余りの間に書き上げた小説を一つにまとめた。今回の4つ目の小説集は朴槿恵政権が終わった後に出版された。もともとは、昨年出版される予定だったが少し遅れた。前記したように、スランプに陥りゲラすら見たくない状態が続いたためである。彼は何故政権の興亡と同じ周期を描き、小説集を出すのだろうか。このような偶然の一致を彼は知っているのだろうか。とにかく結果的に2つの小説集はいわゆる‘失われた9年’と呼ばれる時間の痕跡を、その時間を埋めようとする憂い、怒り、やるせなさのような感情の模様をそっくりそのまま込めている。

 

イ・ギホ:10年前に光州に向かったのは、見方によれば高い生産力を発揮できる環境を手に入れたようなものでした。小説に没頭できる時間を確保できたからです。でも、地方にいるとどうしても活動に限りがあります。ソウルに来ると実践的な行動に参加することができるだろうに、光州に住んでいるというだけでも、つまりこの都市の象徴のために生じてしまう政治的なおとなしさがあります。安らかさとおとなしさみたいな。同時に小説では苦しんでいる他人を描くということ自体が、乖離を感じるというんでしょうか。一体そのような他者に対してどれほど理解することができるのだろうか。ものすごく正直になろうとしたら、それを書こうとする作家を、矛盾を抱えた小市民であり光州に住む作家をそのまま見せることが、その情念をさらけ出すことが最善ではないか、そんな風に考えました。

 

チョン・ジュア:物書きを遮るのは、機械的な疑いであるとか銀行ローンのような疲弊した日常ではない。むしろ穏やかすぎる生活をすること、それも‘光州’という地域的象徴を言い訳にし、その陰がくれる‘政治的おとなしさ’の後ろに隠れて平凡な小市民として生きているという事実からくる恥ずかしさである。このような恥ずかしさは、作家として何かをしなければならないという義務感に繋がるものであろう。しかし、それ以前に‘壁’と向き合うことがもっと大きな問題である。果たしてこのような小市民のおとなしさの中で他者を、また他者の苦痛を理解すると言ってもいいのか、そうして小説家‘イ・ギホ’は、誰かの苦痛について語らなければならないという難関に直面しているのである。

Techné des corps

 

"Par des corps produits par l'autoproduction de l'esprit et sa reprodiction" 

 

精神の自己生産や再生産により作り上げられる身体は存在しない。

→ ecotechnics:身体は no end/no principle/no cause であり、決してsignifying bodyではない

 

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『無為の共同体 』- unworking, syncope(休止) → 共同体は完結した意味によって創造されているのではなく、unworking of sense によって創造される。

work とは意味、完結性を象徴するもの。これらが休止、中止する瞬間。無為というのは単純に何もしないという意味ではない。'無為'とは、意味の完結性をひらく techne である。

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実在/実存(ex-istance):実在自体がすでに他者に対するopeningであるため、存在(実在)がすでにレヴィナスが言う'倫理'に該当する。実在自体が自分の外に出て行くものであるため、それ自体は固定されず is/is not で論じることはできない。つまり実在に固有性/アイデンティティ/純粋性というようなものはない。

→ 身体はもとから技術的である(ontotechnology)。

(address:自分自身を露出、他者に声かけ  cf. 『Adoration』)

 

創造(creation ex nihilo):創造の裏面に agency(essence, subject) のようなものは存在しない。創造は、身体が自己自身と変わる方法でのみ存在する(self-difference)。technical transformation of snese (デリダのいう it differs from itself)

 

Des corps ainsi créés, c'est-à-dire venant, et dont la venue espace chaque fios l'ici, le

 

身体は、現存/不在 ではなく、自己自身と変わる方法で存在する。つまり、to-come/not-yet で存在する。また、身体は area である(devoid of meaning)。

 

La <<création>> est la technédes corps. (. . .) Notre monde est le monde de la <<technique>>, (. . .) monde d'une écotechnie.

 

技術の時代:神が去った世界、ラカンがいう大他者が存在しない世界。

生態技術(eco-technics):道具ではなく、代理補充(余り)としての技術。

 

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技術:

1. 資本の全体主義に奉仕するもの。euqality(singularities) を equivalence に変えてしまった。(Nancyは、これを disaster という。  cf. 『After Fukushima』) ハイデガーもこれを批判。

2. 道具ではなく、代理補充(supplementation of nothing(=opening, ineliminable))としての贈り物(Derrida)

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sens(sense):opens 'the closure of signification' to the coming of unprecedented sense

→ eco-technics

 

L'écotechnie crée le monde des corps sur deux mondes corrélatifs: aux projections d'histoires linéaires et de fins dernières, elle substitue des espacements de temps, avec différences locales, bifurcations nombreuses. L'écotechnie déconstruit le systéme des fins, rend celles-ci nonsystématisables, non-or-ganiques stochastiques même.

 

技術は、目的の体系を解体する。目的の体系とは意味の歴史であり、形而上学のことを指す。

 

(. . .), bien loin d'en faire des <<objets techniques>> 

 

Pour finir, nous sommes dans la techné du prochain

 

techne of neighbor : 1. 親密な 2. 馴染みのない → 同時に発生

(フロイトの Nebenmesch complex, uncanny を参照)

人間でも神でもない、人間でもあり神でもある部分が隣人、怪物性、techneである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

나는 악령의 목소리를 듣는다 ~소크라테스, 철학적 욕망의 기원에 관하여~

 

書名:나는 악령의 목소리를 듣는다 ~소크라테스, 철학적 욕망의 기원에 관하여~

           私は悪霊の声を聞く ~ソクラテス, 哲学的欲望の起源に関して~

 

著者紹介:백상현

フランス国立美術学校 École des beaux-arts de Valence を卒業後、再びパリ第8大学で芸術学を専攻した。

パリ第8大学芸術学科では論文<外在言語的思惟 ビル・ヴィオラ>で修士学位を、のち哲学科で論文<症候的文章, リオタールとラカン>で博士学位を取得した。

高麗大学、梨花女子大学、崇實(スンシル)大学などで精神分析と哲学を中心に講義し、'韓国フロイトラカン・カレッジ'の常任教授を歴任した。ラカンの精神分析理論を通して美学、社会学、哲学を再構成する研究と執筆活動に取り組んでいる。

著書に、『ラカンの人間学:セミナー7の講解』、『騙されない者たちは彷徨う』、『ラカンのルーブル』、『孤独のマニュアル』、『ラカン美術館の幽霊たち』がある。

 

나는 악령의 목소리를 듣는다 - 8점
백상현 지음/에디투스

 

この本で著者は、アテネでのソクラテスに対する死刑(宣告)という事件について、"欲望"というキーワードを中心に説いています。

 

"(상략...), 그것은 철학이라는 실천을 이해하는 하나의 입장에 관한 것이다. 철학이란 복잡한 텍스트의 전개와 사변적 이론의 나열이 결코 아니라는 것, 철학은 하나의 욕망이고, 그것은 변화하려는 욕망이며, 현재의 우리를 지배하는 고정관념의 권력에 대항하는 고함소리와 같은 것이라는 관점이다."(p.15)

 

(訳) それは哲学という実践を理解するひとつの立場に関するものである。哲学とは、複雑な文章の展開と事変的理論の羅列では決してないこと、哲学はひとつの欲望であり、それは変わろうとする欲望、現在の我々を支配する固定観念という権力に対抗する叫びのようなものであるという味方である。

 

簡単に説明すると、'アテネ=言語化された法律に基づいた統治(固定観念的支配)' に対して、'ソクラテス=固定観念から抜け出そうとする欲望' という構図を用いて話は進んでいきます。アテネの固定観念はソクラテスを死刑にするほど病的であったと同時に、ソクラテスも死を前に欲望に忠実であったという点で病的であったと著者はいいます。

中盤から後半にかけては、フロイト(Freud)やラカン(Lacan)を中心に添えてソクラテスの欲望が彼の死後、弟子であるプラトンはじめアテネにどのように継承されていったのかについて書かれています。固定観念を抜け出したいというソクラテスの欲望は、彼の死で終わるのではなく、まるで幽霊のように後の世代に纏わりつくというのです。

本の題名にもなっている悪霊の声というのは、ソクラテス自身(もしくはソクラテス的欲望の声)であり、そのような声は紀元前のアテネだけではなく現在わたしたちが生きている背世界でも常に響き渡っているのです。

 

と大雑把な内容はこんな感じでした。

 

 

(△)

- 他のレビューを少し見てたら、ラカンに対する理解がなってない!というレビューをみつけました。自分はラカンをそこまで深く勉強したことがないので何とも言えません。ただ、本書は150ページの本でエッセイ形式で書いてあるので専門的なところは幾分端折られている気もしました。(哲学・精神分析に関する用語についてもとくに説明なく使われているので用語について知らないとかなり読みづらいのかなとも思いました。)

 

- これは個人差ですが、自分は完結した文章が好きなのでちょっと読みづらい?というか文章を完結させてほしいなぁと思ってしまいました。笑

例) -니까.  -처럼.  -하게 되는.  体言止め etc...  

といった感じで、え!?そこで文章切ります!? っていうような感じで不意をつかれてしまいました。笑

 

 

ただ、全体的に内容は興味深かったです。

最後のエピローグでは、スケートボードをくりかえし練習する少年について彼もまたソクラテスであり我々も然りだ(であるべきだ)!といい終わっています。

 

"너희들은 어쩌려고 그러니..."라는 어른들의 애도의 목소리에 침을 뱉는 욕망이 그곳에 있었기 때문이다. 당신들이 원하는 방식대로는 결코 나의 시간이 반복되도록 하지 않겠다는 어떤 완고함이, 견고한 타락을 통해 현재의 이데올로기를 돌파하려는 투쟁이, 바로 그러한 타락을 관리하고 통제하여 하나의 반복으로 정립하려는 철학적 욕망이 보드를 타는 고딩들의 형상 속에 있었다는 말이다." (p.149)

 

(高校生たちがスケードボードをズボンが擦り切れるまで反復練習してるのをみて)"そんなに頑張って何になるの?"と言ってくる大人たちに、"あなたたち(大人たち)の望む形では決して私たちの時間が反復することはない"という、既存のルールから見たら堕落かもしれない道を反復し進もうとする欲望がその高校生たちから見えた。

と著者はいい、それがまさにソクラテス的欲望だというのです。

 

たしかに大人になるにつれて無生産にみえることに対して手を出しづらくなり、それだけでなくそのような事をしている若者にたいして(悪気なく)アドバイスのつもりで "やめたほうがいいよ〜" とか  "それって意味なくない?役に立つの?" と声がけすることが多々あると思います。ある程度年齢を重ねると、社会的固定観念に縛られその基準をもとに判断しやすくなりますよね。

ただそのような固定観念に縛られることなく、自分の欲望の声にしたがい生きて行くことの大切さを著者はソクラテスの人生を通して語りかけているのかな、と思いました。

 

興味がある方は、ぜひ手にとってみてください〜

 

 

 

 

 

 

 

추석이란 무엇인가

 

9月21日、김영민(キム・ヨンミン)教授が京鄕新聞にコラムを掲載しました。

 

コラムのタイトルは、추석이란 무엇인가? (秋夕とは何か?)

 

goo.gl

 

韓国では秋夕期間は祝日になります。

今年は、(土日合わせて)9月22日〜26日まで連休でした。

 

この期間は親戚があつまったり、海外旅行に行ったりでお店も閉まったりとソウルから人が消えます。笑

(푸른 밤というラジオによると今回の秋夕期間で3000万人が大移動するとのこと。人口が5100万人ほどなので凄さが伝わりますね。)

 

秋夕期間のあいだ故郷に親戚が集まると、久しぶりに会うついでについつい

"学業の調子はどうか?" "就職はできそうなのか?" "結婚はいつするのか?"

などの質問攻めにあいがちですね。(特に自分のような20代は特に聞かれる。。。笑)

 

キム・ヨンミン教授は、そんなとき相手が困ってしまう質問、特にアイデンティティを問うような哲学的な質問を逆にしてみてはどうか、と書いています。

 

例えば、秋夕とは何か?、結婚とは何か? などなど。。。

 

そうすればそのような質問から解放され自由になれるのでは、とユーモアある提案をしています。

 

自分の言葉に変えてこのように説明しても特に面白くないと感じますが、実際にキム・ヨンミン教授のコラムを最初から最後まで読んでみると、思わずクスッと笑わずにはいられないコラムになってます〜

 

ぜひ一読してみてください:)